よろずやジロー~宮本次朗【プレカットの宮本工業グループ相談役】のブログ

プレカットの宮本工業グループ相談役、宮本次朗の一代記。人生を彩る貴重な出会い、感銘を受けた言葉を振り返りつつ、明日を語ります。

和歌山工場のプレカットへの転換

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千葉工場(写真左)と和歌山工場(同右)の各祝賀パーティーでの筆者。

 日本初の大規模プレカット工場として千葉工場が本格稼働して半年。工場のお披露目を兼ね、1986年4月23日、レセプションを催しました。各界から祝辞をいただき宴もたけなわ。しかし、最後の私の挨拶が社内に波紋を広げます。それが製材業からの撤退と和歌山工場のプレカット工場への転換を宣言したものだったからです。
 当時、首都圏のトレンドが関西まで波及するには、どんな事業でも5年はかかるといわれており、プレカットの関西での展開は時期尚早との考えが業界にはありました。こうした環境下での私の宣言。それは、とりわけ父に動揺をもたらしたのです。
 今から思えば、父も事業転換のタイミングを考えていたはずです。しかし、自らが始めた仕事を息子に否定されたという気持ちが勝ったのでしょう。父は亡くなるまで、プレカットへの転換に賛成はしませんでした。
 しかし、私も経営者として多くの社員を預かる身。スピード感を持った展開が必要と信じ、千葉工場完成レセプションの開催から2年で、和歌山工場にプレカットのラインを設けました。その準備中の88年4月に父が他界。私はラインの完成後、その祝賀パーティーを父の誕生日に合わせ、同年7月に開催しました。
 さて、自分の決断が父を弱らせてしまったのかもしれない。そんな後悔にも似た感情を抱きながら始めた関西でのプレカット事業。これで失敗するわけにはいきません。S林業からの受注獲得を皮切りに、新規顧客を開拓しながら近畿全域に出荷を進めた結果、ラインはすぐにフル稼働するようになりました。工場の売上げに占める割合も、1年後には9割を上回りました。
 こうした状況を受け、93年11月に当社は製材業から完全撤退。その後、和歌山工場はラインの拡充を重ね、構造材、端柄、野地、床・パネル、金物の"5点セット"を擁する総合プレカット工場として現在に至っています。

 よろずやジロー、きょうのひとこと。
 ときには父に逆らえ。合掌。