よろずやジロー~宮本次朗【プレカットの宮本工業グループ相談役】のブログ

プレカットの宮本工業グループ相談役、宮本次朗の一代記。人生を彩る貴重な出会い、感銘を受けた言葉を振り返りつつ、明日を語ります。

宮本工業グループ75年史ダイジェスト②

 父が興した木材業の責任者となった私は、28歳で宮本木材工業代表取締役社長に就任した。そして木材業は環境適応業であるという考えのもと、社業の中心を製材業から現地挽、再割、プレカットへと変遷させていく。和歌山に本社を置きつつ他県への進出を図るなか、1980年11月に再割千葉工場を新設。千葉には5年後、日本初となる全自動プレカットシステムを導入した。プレカットのシステム開発と実際の加工においては幾多の困難があったが、それらを乗り越えた結果、当社は「プレカットのパイオニア」として認知されるようになった。プレカット工場はその後、1988年に和歌山、1990年に仙台と拡大し、全国3拠点体制を確立。この間、1988年6月には宮本木材工業株式会社を株式会社宮本工業に社名変更した。
 1988年4月8日、第一創業者で私の父である宮本光楠が逝去、享年71。自らが興した宮本木材工業、宮本木材、宮本興産、陽和興産の4社による合同社葬が和歌山市寄合町の自宅で営まれた。
 木との関わりを続けるなか、より高い利益性を求めるには施工まで行う必要がある。そこで1990年4月竣工の私の自宅を皮切りに自社施工をスタート。1991年4月には本社に建設事業部(現建設部)を新設した。建設事業部はいきなり一般住宅4邸を手がけ、1992年度には初の鉄骨造建築物を竣工。さらに1993年6月、当社の現社屋を完成させた。
 阪神淡路大震災の発生から間もない1995年2月、三菱商事から約15%の資本参加を得て日本プレカットシステム株式会社(NPS)を設立。NPSは当社プレカット工場だけでなく全国のプレカット工場と提携、広くプレカット材の受注生産を行うことを目的とし、自社の技術を他社工場に供与する役割も担った。
 1995年12月、宮本工業グループ創立50周年。プレカットのパイオニアとして製品の多角化、高品質化を進めていた当社は、この時点でプレカット加工の対象部材を当初の構造材から羽柄材、野地にまで広げていた。グループを支えるのは宮本工業と日本プレカットシステムという両輪。この後、グループはこの両輪を軸に次の節目である創立75周年に向けて進んでいくことになる。