よろずやジロー~宮本次朗【プレカットの宮本工業グループ相談役】のブログ

プレカットの宮本工業グループ相談役、宮本次朗の一代記。人生を彩る貴重な出会い、感銘を受けた言葉を振り返りつつ、明日を語ります。

宮本工業グループ75年史ダイジェスト①

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当社の『50年史』。次回の75年史も表紙は銀箔の予定ですが、100年史はぜひ金箔で。

 お久しぶりです。現在『ジロー物語Ⅱ(仮)』の刊行に向けて準備を進めています。今日から数回に分け、ブログ本第2弾に掲載予定の「宮本工業グループ75年史ダイジェスト」をご紹介しようと思います。皆さんは『社史』を目にされる機会などそうないはずと考え、当社75年史を私の視点からダイジェスト化してみました。お読みいただければ幸いです。

 宮本工業グループの源流は、私の父で初代社長の宮本光楠(みつくす)が1945年12月に始めた賃挽き製材業に遡る。この年の8月、日本は連合国軍に降伏し太平洋戦争は終結したが、同年7月の米軍による空襲で和歌山市のシンボル和歌山城が焼け落ちたほか、市内中心部が焼け野原となっていた。この光景を見た父は呆然とする一方で、住宅建設が復興の中心になると考え、同年12月、和歌山市中之島で賃挽き製材業を始めた。土地も工場も借り物だったが、全身全霊を込めて働き、開業わずか半年で自前の製材工場『宮本製材所』を和歌山市寄合町に新設した。
 戦後の木材市場は、政府による統制とその解除、朝鮮戦争特需とその反動不況とめまぐるしく変遷したが、宮本製材所は国産材専門業者として、地場・大阪向けに堅実な経営を進めたと聞く。
 その後、外材輸入が本格化する時代に合わせ、『宮本木材工業株式会社』を1961年4月28日に設立。和歌山市北島に米材専用の北島工場を新設した。この工場は約1万坪の敷地に延べ床面積約1500坪。当時中学3年生だった私は、8ラインに及ぶ最新のオートメーション設備が東洋一と評されたのを憶えている。
 北島工場の稼働による増産を受け、宮本木材工業は「資金=紀陽銀行、原材料=三菱商事、販売=東京宮本会」というチャネル構成を確立し、東京市場での販路拡大を図った。続いて宮本木材工業は1971年5月、現在の本社がある和歌山木材港団地に冷暖房完備の西浜工場を新設。ラインをコンパクトにオートメーション化し、当時1シフトが常識だった稼働体制の2シフト・3シフト化を試みるなど、日本初の取り組みが注目を集めた。
 一方、会社の源流を継いでいた宮本製材所は1969年4月、『宮本興産株式会社』に社名変更し、ゴルフ練習場や駐車場の経営に乗り出した。また、宮本木材工業の不動産部門を『陽和興産株式会社』として1973年3月に独立させた。
 父は、このように事業を部門ごとに集約、分社化。宮本興産を1973年6月、陽和興産を1975年6月にそれぞれ長男の堯夫に継承した。経営の継承は、1975年7月、宮本木材工業の代表取締役社長に私が就いたことで完了した。