よろずやジロー~宮本次朗【プレカットの宮本工業グループ相談役】のブログ

プレカットの宮本工業グループ相談役、宮本次朗の一代記。人生を彩る貴重な出会い、感銘を受けた言葉を振り返りつつ、明日を語ります。

環境適応業の考え方は正しかったのか?

f:id:yorozuyajiro:20220215085840j:plain

社長就任時に設けた旧社長室。新社屋に移ってからも、私にとってここは沈思黙考の場です。

 戦後の日本は昭和 29(1954)年 12 月に始まった神武景気を皮切りに、岩戸、オリンピック、いざなぎと、実質経済成長率が年平均 10 %超となる大型景気を経験。国民総生産は昭和 43(1968)年、米国に次ぐ自由主義世界第2位に躍進しました。こうしたなか木材需要は大きく伸び材価も上昇。需要増につれて、従来は国産材の補完材だった米材の輸入が増加していきました。このとき、当社は主要取扱品目を国産材から米材へとシフトします。戦後の混乱期に父が、その需要増を見越して木材の賃挽きを始めたように、時代の要請を見て業容を変えたのです。
 時は過ぎ、今度は第一次オイルショックが世界を襲います。日本はたちまち不況に陥り、危機翌年、昭和 49(1974)年の実質経済成長率は戦後初のマイナスを記録しました。私が社長に就任したのは昭和50(1975)年。今から考えると、とんでもないときに大役を任せられたものだと思います。
 さて、石油危機後の不況は上場企業の3社に1社が赤字と伝えられるほどで、木材業界は市況の低迷と住宅着工数の底ばいというWパンチを食らいました。当社も取引先の不渡りが頻発し、まさに生きるか死ぬか。私が当時作成した資料には、悲壮感と覚悟に満ちた文言が並んでいました。要約すると、不況の嵐の真っ只中「何もやらないで倒産するより何かに挑戦する」の精神で、①東京の営業拠点の新設、②土地の購入、③工場の複数拠点化、④販売・建設・リフォーム部門の新設を目指す云々。
 このピンチは結果的に、銀行、商社、住宅会社、そして社員・家族の支えと、社是である執念で乗り越えることができました。しかし、その後も私の人生は数々の失敗とその克服の繰り返し。それでも、これまでやってこられたのは、常に環境に適応することを第一に考えてきたからだと思っています。これは社員にいつも述べていることですが、会社は環境に適応していかなければ、必ず潰れてしまうものです。幸運にも当社は、1)高度成長の波に乗って成長し、2)不況期に時代に合わせて業容を変化させ、3)デフレ期には倒産を免れるべく真摯に取り組み、4)ここ数年の復興拡大期を迎えることができています。
 そして今後。当社は常に5年先を見越した経営を続けていかねばなりません。住宅着工件数が右肩下がりを続けるなか、鉄・コンクリートから木への転換を見越して木造大型物件への取組みを進めること。民間需要の先細りを見越して公共物件の受注に取り組むことが重要です。それに加えて、今は業界を取り巻く環境自体の変化が、昔とは違って格段に速く激しくなっています。業界・業態の敷居を越えた適応能力が、これからの経営陣には求められるのではないでしょうか。

よろずやジロー、きょうのひとこと
オイルショックも大変だったけれど、“今”を生き抜くのはもっと大変かも。