10月1日付けブログ『うれしいプレゼント』で、熊野那智大社の疫病退散のお札をいただいたこと、そして和歌山・千葉・仙台の事務所玄関に貼らせてもらったことを記しました。また、お札に書かれている「蘇民将来之子孫也」のことばについても簡単にご紹介したのですが、今回は備後国風土記からその由来をもう少し詳しく・・・。
武塔神が旅の途中、一夜の宿を借りようとしたところ、その地に住む裕福な弟・巨旦将来は断り、貧しい兄・蘇民将来は粗末ながらもてなした。後に武塔神は自らの正体を素戔鳴尊(スサノオノミコト)だと明かし「蘇民将来之子孫也」と言って、茅の輪を付けていれば疫病を避けることができると蘇民に教える。このため蘇民の一族は疫病を免れることができた。
大まかにいうと、このような話だそうです。私は故事に触れ、あらためてお札の有難さを感じるとともに、これまた先のブログでご紹介した本『安岡正篤一日一言』の一節を思い出しました。「貧の生き方」の項より曰く、「貧乏だから人の世話ができぬというのは間違っている。貧乏なら貧乏で情を尽くす道はある。むしろ富貴の人の形式的な儀礼よりはるかに濃やかな人間味があるものだ。」
氏が述べるとおり、人間力を養うにはお金が少し不足している方がいいのかもしれません。ただ、日々の生活を考えれば、お金はあるに越したことはないわけで。なんとも悩ましいところですが、考えるに「お金を持っても驕らず。お金がなくとも腐らず。」というのが正解の近似値であるような気がします。
よろずやジロー、きょうのひとこと。
やはり人生、日々勉強です。