よろずやジロー~宮本次朗【プレカットの宮本工業グループ相談役】のブログ

プレカットの宮本工業グループ相談役、宮本次朗の一代記。人生を彩る貴重な出会い、感銘を受けた言葉を振り返りつつ、明日を語ります。

東日本大震災と仙台工場

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赤い部分が東日本大震災における仙台市周辺の浸水域。地図左下、エンジ色のMのマークが当社仙台工場。

 2011年3月11日、最大震度7の東日本大震災が発生。当社仙台工場がある名取市も震度6弱の地震に見舞われました。こうしたなか工場は、建設時に津波を想定し3mの土盛りと深い杭打ちを施していたため、ほとんど被害を受けませんでした。それでも工場敷地の1.5m下まで潮が吹き出てきたらしく、あらためて地震・津波の猛威を思い知らされました。
 大震災のあった日、私は千葉工場に向かうタクシーの車中で大きな揺れを感じました。東北地方を中心に大きな被害が出ていることを知り、情報収集に努めましたが、なかなか詳細な状況が分かりません。私は帝国ホテルで眠れぬ夜を過ごしたのですが、その間も震度5に及ぶ余震が続き、浴槽に張った水が溢れたことを覚えています。
 阪神淡路を上回る規模の震災だけに、従業員の多くが避難生活を余儀なくされていることだろう。これは一刻も早く支援の手を差し伸ばさねばなりません。
※のちの調べで、仙台工場では従業員のご家族4人が死亡、住宅全壊も5棟に及びました。
 翌朝、私は浜松町まで歩き、唯一動いていたモノレールで羽田空港へ。大阪空港への便になんとか乗り込み、その後和歌山着。ライトバンに乗り換えてスーパーの倉庫に向かい、帰途に注文していた品を積み込みました。内容はカップ麺や菓子などの食料2000食と飲料水、それにカセットコンロなど。問題はこれらの品をどう現地に届けるか、だったのですが、緊急物資車両の通行許可証が周囲の尽力のおかげで間もなく発行され、当社の協力運送会社の社長ご夫妻に輸送を託すことができました。ライトバンが仙台工場に着いたのは、地震発生からまる2日弱経った13日11時45分のこと。物資を降ろすや否や車は和歌山に取って返し、第2・第3便では上記の品に加え、現地から要望のあった日用品・医薬品なども送りました。
 仙台工場は震災から約20日後に操業を再開するのですが、その際、近隣の方々から「支援物資で助かった」旨のお話をいただきました。仙台工場の従業員は独自の判断で、自分たちへの支援物資を近隣の皆さんと分け合い、助け合っていたのです。仲間のことをこれほど誇らしく感じたことはありません。
 
 よろずやジロー、きょうのひとこと。
 今も続く復興、東北にエール。