よろずやジロー~宮本次朗【プレカットの宮本工業グループ相談役】のブログ

プレカットの宮本工業グループ相談役、宮本次朗の一代記。人生を彩る貴重な出会い、感銘を受けた言葉を振り返りつつ、明日を語ります。

青天の霹靂

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社長就任当時の筆者(写真右)。

 平成から令和へと元号が変わる昨夜。大阪市内のホテルでなかなか寝付けずにいた私は、室内のソファから夜景をぼんやり眺めながら、平成を駆け抜けた上皇・上皇后陛下に思いを馳せました。約30年の長きにわたり国民に寄り添ってこられた両陛下。とくに大震災をはじめとする大きな災厄が日本を襲った際、被災者のもとに何度も足を運ばれたお姿を思い出すと自然に涙がこぼれてきました。
 時刻は零時を過ぎ元号は令和に。代替わりをされた上皇・天皇両陛下はどのような感慨をお持ちなんだろう。知るべくもないことですが、私はお二人の今のお心持ちになぞらえ、自身が2代目社長になった頃のことを思い出したのです。

 

 入社早々、筏仕事、原木の選別と製材に関わる業務に就く傍ら、私のもう一つの仕事は、ミナミでの夜のお付き合いでした。週に一度、工場での仕事が終わるとミナミに向かい、お酒もほどほどに真夜中まで遊び、朝には再び工場へ。そんな日々を約6年間過ごしました。
 その間、当社工場が南港に移転し、日本で初めて3交替制による24時間稼働を行うことになりました。私は現場の責任者として、各交替時には必ず現場に出ることにしたため、現場、営業、接待と日々スケジュールはぎっしり。体力自慢の私もさすがに音を上げそうになりましたが、このときの経験が後々いろんな場面で役に立ったのも事実です。
 さて、入社して6年。28歳になったとき、私は宮本木材工業の社長に就任します。きつい仕事の代表格であった木材産業には、とにかく体が丈夫な私の方が適任だと、父、そして兄が考え、兄は不動産・ビル管理を中心とする、家業のもう一つの主要部門を継ぐことになったのです。
 私にとって社長になることはまさに青天の霹靂。しかも世は第一次オイルショックの余波の真っただ中。石油、木材と資源ナショナリズムの台頭も相まって、私は製材業の未来が明るくないことを予感した中での大転換点でした。さらに、社長就任後しばらくして、製材部門に巨額の負債があることを知ったときの驚きといったら・・・。
 社長になって早々、重い荷物を背負った私は、日日の売上げアップを目指す一方、長期的な視点では製材業からの脱却を図るという、一見矛盾する舵取りを迫られることになりました。そこでまず売上げ額5倍を目標に始めたのが現地挽き製品の輸入でした。完成品を発注・輸入することで小ロット販売が可能となり、取引先はそれまでの約50社から200社へと飛躍的に伸びました。また、当時、品質にばらつきがあった現地挽き製品を再選別し、再割加工を施すことで歩留まりを上げたことも功を奏し収益が改善。コツコツ続けていた土地購入による資産効果もあり、5年ほどで累積赤字を一掃することができたのです。
 ただ、取引先の拡大にはリスクも多く、以前記したように不渡り手形を掴まされることにもなったわけですが(苦笑)。

 よろずやジロー、きょうのひとこと。
 24時間戦えますか?を地で行ったあの頃。