よろずやジロー~宮本次朗【プレカットの宮本工業グループ相談役】のブログ

プレカットの宮本工業グループ相談役、宮本次朗の一代記。人生を彩る貴重な出会い、感銘を受けた言葉を振り返りつつ、明日を語ります。

いかだ事件

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 大学在学中から家業を手伝い始めた私は、卒業後、当時の宮本木材工業に正式に入社します。会社の跡継ぎは兄というのが既定路線でしたので、ある意味、気楽に仕事を始められました。しかし、その一方で誰よりも早く出社し、誰よりも一生懸命に仕事をすると心に決め、業務にあたりました。最初に所属したのは製材部素材課。製材業にとっての素材とは原木のこと。海外から届き、港に浮かべられた外材を検品後、貯木場や工場まで運搬するのが仕事です。当時、工場は紀ノ川の支流、土入川のほとりにあり、和歌山南港の貯木場からは約10kmの場所に位置していました。
 そして、仕事にも慣れ始めた頃、"事件"は起きました。大型の台風が日本列島に接近していたその日、海上のうねりが原因で本船荷役がストップしました。当時の滞船料は1日あたり約100万円、この分だと2日分200万円の負担を覚悟しなければなりません。さらに工場の操業も停止してしまいます。そこで、筏屋さんに無理を承知で曳航を依頼したのですが、返事は「No。」何が何でも原木を搬入したい私は、自社の曳船「昭隆丸」に乗り込み、筏には社員の森下さんに乗ってもらって出航しました。なんとか南港貯木場から紀ノ川下流まで進み、防波堤に差し掛かる目印、一文字と呼ばれるテトラポッドが見えたところで、今度は私が筏役に。この先はワイヤーが切れる危険性があり、他の人にそのリスクを負わせることはできないのです。うねりに乗りつつ、ボートを進めてわずか3分後、曳船と筏をつなぐワイヤーロープがブチっと切れました。咄嗟に私は海に飛び込み、そこから約100m、灯台がある岸壁まで泳ぎ、ずぶ濡れのまま、近くの家に電話を借りに走りました。そして件の筏屋さんに電話すると、すぐさまこちらに向かってくれるとのこと。感謝の念でいっぱいになりながら、私は再び海に飛び込み、曳船に乗り込みました。すると間もなく、6隻の船が現れ、筏を1枚1枚、工場まで運んでくれました。
 後日、この件は、社長である父の耳に入ることとなり、「バカもんが。」と怒鳴られました。まさに親の心、子知らず。お金より大切なものがあることを教えてくれたこの一言に、胸が震えたのを今もはっきりと憶えています。

 よろずやジロー、きょうのひとこと。
 油断大敵。